木遣の歴史

木遣とは・・

木遣(きやり)は元来作業唄である。複数の人数で一つの作業を行うとき、力を一つにまとめる合図としてうたわれた唄であった。現代では作業そのものが動力化して、人力によることが殆どなくなり、木遣り唄も作業唄から離れ、祭礼や祭りの練歌として唄われ、儀礼化した存在になっている。

始りは諸説あるが、栄西が建仁寺を建立する際、作業唄として自分の名前を掛声にし、「エイサイ、ヨウサイ」としたものが「エイサ」「ヨイサ」になり、これが掛声の始まりとも伝えられている。

木遣りを伴う作業には、木曳と地形の2つに大別される。

  1. 木曳(きひき)

    木材(石の場合は石曳き)を運搬する作業
    長い行列の先端と末端では相当の距離があり、遠くまで声を届かせるため、音頭(おんど)は甲高い声で唄う。
    伊勢御木曳の木遣、諏訪御木曳の木遣がその例である。

  2. 地形(ぢぎょう)

    建造物の基礎となる地固め作業
    大きな建物を建てる際、重量のかかる場所の地面に玉石をひき、柱を立てた。俗に真棒○と言われる作業方法で、近世以降、都市の発達に伴い鳶の仕事として行われた。
    江戸木遣りがその例であり、越谷の木遣りもこの流れをふんでいる。

    ・真棒櫓作業方法

    真棒での地固め作業
    真棒は直径一尺から一尺五寸ほどの樫材。多くは八角に面がとられ、下端は鉄の帯金で締められている。その上にはダボが挿入されていて、網を締める際の止め木としている。この部分に人数分の綱が締められ、その綱を職人がそれぞれに握った。形状から「たこ」と言われている。
    櫓(やぐら)を組み、真棒を立てた周囲に、足場丸太で一段、二段と組み、作業を行う職人(鳶)は、二手に分かれた。
    1. 木遣り師

      リーダー格。必ず一人ではなく、3から5人である場合もある。

    2. 側(かわ)

      木遣り師以外の者。真棒櫓は20~30人で行われ、真棒は網によっての引き上げと落下を繰り返され、地形が行われた。
      大勢の力を一つに合わせ効率良く、安全に作業を遂行するため、秩序を乱さない様にするために、声を出して合わせたのが木遣り唄である。

地方木遣の概略と流れ

現在、木遣には大きく分けて2つの流れがあります。

  1. 関東地方を中心とする労働歌から発達した木遣

    一般的でほぼ各地に共通。

    1. 現在では芸能としての木遣
    2. 伝統的火消しの儀礼的な木遣
    3. 祭礼の山車曳き

  2. 伊勢や諏訪等の御神木曳き歌

越谷地方の木遣の歴史

越谷の木遣唄は、徳川江戸開府以後に「江戸木遣」が当地(越谷)に伝えられ、歌われる様になりました。
当時の将軍である徳川家康は、江戸の日本橋から始まる5つの街道を整備。そのうちの1つが千住から白河へと至る奥州道です。越谷宿もこの街道の「宿場町」として整備が進められました。その後、時代とともに江戸近郊の商業地としても発展。商いを通し、御符内との深い交流も深まりました。
道中や宿場が整備された後、2代将軍秀忠は当地(越谷)に鷹狩のための御殿(越ヶ谷御殿)を建てました。現在、越谷市御殿町に「越ヶ谷御殿跡」として石碑が立てられています。徳川家の代々の将軍達が、民情視察を兼ねた鷹狩に訪れ宿泊されました。
木遣唄の伝承・流行に、特に強い影響を受けたとされたとされる出来事の一つに、この越ヶ谷御殿と江戸城との関わりがあります。明暦(1657年)江戸の大火で、江戸城本丸・二の丸が焼失。その復旧のために、越ヶ谷御殿が使われたのです。御殿を解体し江戸へ運び、江戸城の一部として再建移築。この移築の際、越谷の職人も多数動員されました。職人達は、建造物構築に対する関心から、「江戸の木遣唄」に対しても関心と親しみをもち、共に歌い受け継がれたとされます。
その後、鳶仲間によって棟上祝儀や宴席、そして久伊豆神社祭礼の練唄・山車の曳き唄として歌われ、一般庶民にも広く伝わりました。寛政12年(1800年)当時の御殿町高橋卯之助と新町島根茂助の活動は、時勢の然らしむところであり、鳶職として、その頭に当たる者は木遣音頭の流行に乗り、その習得と練習に身を入れ、現代の越谷木遣の原型が誕生したと伝えられています。その心は今日まで受け継がれています。

越谷木遣師系譜

木遣師系譜